<退職、それから 〜孤軍奮闘〜>


先生は言った。「潤君、命をかけて何かをなすことができるかい?」



 2001年10月、退職した彼を待っていた現実は冷たかった。すぐに自民
党で公認され、立候補の条件が整うわけでもない。地縁血縁による自前の支持
者が駆けつけるわけでもなし、何より選挙区内に林じゅんを知っている人も数
十人というのが現状だった。
まず自民党に入党し、党神奈川県連から派遣される形で、出身地の鎌倉市長
選を手伝う。前鎌倉市長が引退表明し、自民党は石渡徳一市長候補者を推薦し
た。

  何故自民党かと言えば、実現できる力があるゆえ、それが改革に一番近いと
考えたからだ。彼から見て、民主党、共産党、社民党など野党はまだまだ力不
足だった。野党が政権を握る時は、現実的にまず来ないと思った。ならば、自
民党内部からの方が改革が進めやすいと思ったのだった。
 市長選では自民党推薦(公明・民主も推薦)の石渡徳一市長候補が当選。次
は自分の番だと思った。しかし、政治的なカードを何も持っていない彼に、自
民党は厳しい。
「立候補したいの? あぁ、そう」
  これで終わりだった。バックアップなんてしてもらえない。一生懸命活動し
ても認められない。
  朝に街頭演説、昼に挨拶回り。しかし、何の後ろ盾もない若者に協力してく
れる人は少ない。
  彼はこの時の生活を「怒鳴られ、怒られ、蔑まれ、まるでサンドバックにな
ったような生活」と表現する。
さらに、生活費数万円の経済的逼迫も彼を追い詰める。床が剥がれてカーテ
ンも破けたあばら家で、彼は「このまま会社にも戻れず、立候補もできず終わ
っていくのか」と不安にさいなまれた。

 そんな時支えになったのが、病苦と闘いながら絵を描き続けた祖父、林武の
存在だった。
彼が傑作「赤富士」を書き終えるまでにかかった時間は50年。祖父はあきらめ
なかった。
 「自分が絵を書かなければ、誰がやるんだ」とあがきぬいた。「俺にもその
DNAは流れているのだから、できないはずは無い」彼はそう思った。こじつけで
ある。だが、そんなこじつけにでも頼らなければ、やっていけなかったのだ。

「この時、少し気負い過ぎていたのかもしれない」と彼は言う。

 その「気負い」を解いたのが彼の「先生」(現在は故人)であった。「先生」
は、当時90歳を超えており、時の首相の指南役もしていたが、引退してからは
若手政治家の指導を楽しみとしている人だった。「円覚寺で座禅をしろ。朝の
街頭演説より君のためになるぞ」。先生は彼に座禅をさせた。先生と話してい
ると楽しかった。苦しくなると先生の所に行った。西郷先生の生き方や、戦後
政治の表裏も教えてもらった。
彼は粘り強く活動を続けた。しばらくすると、複雑な政治の力学が見えてく
る。派閥と上下関係と政策と地方の事情と、からみにからんだ公認をとるため
のルール。それを守ってうまく勝つ、やたらと手の多い詰め将棋。
助けてくれる人もいた。彼が真剣なのを見て、先生が人を紹介してくれた。
彼のために勉強会を開いてくれる人もいた。人脈が少しづつ増えていった。
「暗闘だったね。何も無い中から、何かを生み出さないといけないんだから」
複雑な手を一つ一つ読みながら、政治の複雑な力学の中を泳ぎ抜いた。2003
年6月。自民党横浜市連で推薦を決定し、記者会見を行った。その後、鎌倉支
部、逗葉支部が推薦を相次いで決定し、自民党神奈川県連に申請。7月、党本
部より支部長就任の要請があり、次期衆院選の公認候補予定者となった。
  ほっとした。それを「奇跡」という人もいた。だが、綿密に戦略を立てた結
果でもあった。特に兄貴分である隣の選挙区選出、当選2回の若手議員、菅義
偉代議士(神奈川2区)が、ポスター・チラシから街頭演説、地元議員との人
間関係など親身になって相談に乗ってくれた。そうした多くの関係者の温かい
指導を受けた結果だった。
「「幸運が重なったせいだよ。やっぱり、多くの人の助け無しではできなかった」。

1.プロローグ「ゼロからのスタート」
2.18歳 天啓「政治家になることを決意」
3.慶大弁論部時代「人生の学校」〜猛成長〜
4.毎日新聞記者時代「政治の“裏側”を取材!」
5.退職「それから」 〜孤軍奮闘〜
6.衆院選「いざ、鎌倉!」
7.惜敗の後に・・・
8.二度目の挑戦
9.原点、そして通過点