活動報告

政治信条――説明責任と現場主義>

得票の重み

選挙の実際の根幹

支援者に恵まれて――浪人を経て

立候補の決意から退職まで

自民党の公認制度

公認獲得レース

学生の頃の政治状況

公約達成を政治家の通信簿に

後半の国会審議――国民投票法案など

総裁の要件――国益、説明責任、決断力

リーダーの生き様、死に様

 

皆さんこんにちは。私は平成七年商学部の卒業、弁論部で四年間やってきました林潤であります。昨年九月の総選挙で初当選をいたしまして、現在まで六カ月間働かせていただいております。専門は、年金や介護や医療といった社会保障の問題に取り組んでおりまして、厚生労働委員をやっております。そのほかに憲法調査会というのに所属をしております。憲法は学生のときからずっと取り組んできたもので、今、国会議員としてこの憲法問題を論じていられるということに、本当に充実感を感じております。もう一個は災害対策特別委員会というところで、首都圏直下型地震が起きたときの備えをどうするか、考えているところです。

まず始めに、こうして先輩方にお集まりいただきましたことに、心より感謝を申し上げます。私、弁論部の釜の飯を食って、そこで育てていただき、卒業してから退職まで、そして浪人中、いずれも弁論部の先輩方を含めた塾の皆さんと接してきまして、「独立自尊」の精神というのがわかってきたのは、卒業後です。こうした素晴らしい先輩方に囲まれて、今日私が話すのは甚だ僭越ではありますけれども、自分の視点で、飾らないで、気取らないでお話をさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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政治信条――説明責任と現場主義

 今日「林じゅん新聞」っていうのを、10月~3月号までお配りをさせていただいております。これは駅頭で配っているやつで、弁論部の先輩の、例えば渡辺深先輩(昭24経)なんかは地元に住んでいらっしゃいますけれども、毎回これはお届けして、すべてオフィシャルに出しているものです。私の政治信条は、説明責任と現場主義っていうのを大事にしております。それは弁論部のときが原点でありまして、やはり国会議員に一票一票入れても、国会で何をやっているのかっていうのが分からない。それは市会議員、県会議員、国会議員と遠くに行けば行くほど、目線から遠くなればなるほど分かりにくくなるんじゃないかと私は思います。その新聞にちょっと出ているような内容だけでしか国政をわかっていない、こういうもどかしさもあります。

新聞記者時代から現場主義っていうのを実践をしてまいりました。ちょうどこの『自由民主』(自民党機関紙)の記事の中に、私のサラリーマン時代というのがありまして、ここでも書いてあるんですけれども、一つの質問をするときにも、必ず現場の声、障害者自立支援法だったら、実際に施設に行って、老人ホームに行って、それからいろんな介護の団体、障害者の団体にお会いしてきました。何が一番困っているのか、そしてこの手紙の量、手紙の内容、それも全部大臣にお話をいたしました。だから大分そのときは、野党的だとか、ともするとちょっと共産党チックになり過ぎるんじゃないかということも役人の方から言われました。けれども、そこは恐れずに質問をさせていただきました。もしよかったらホームページにも全部内容が出ていますんで、御関心があればご覧になっていただきたいと思っています。

あとは先ほどの説明責任ということで、当選後に国会ツアーというのをやっておりまして、月に二、三回、選挙区からバスで国会の見学に行くのですけれど、実際一票一票名前を書いた政治家が、国会議事堂というところに行って、「どんな場所で働いて何をしているんだ」っていうのがやはり分かりにくい。実際に赤じゅうたんを一緒に歩いてみて、議会の食堂に入って御飯を食べて、本会議場を見て、委員会場を見て実感します。往復路のバスの中では、予算委員会や厚生委員会で質問をしている様子をビデオで見ていただくんですけれども、実際にこんな質問をして大臣からこんな答弁がきましたよ、こんなことをやっていますということをじかに知ってもらうと、参加した方の関心が変わってきます。

そして、地域でミニ集会をたくさん開いています。規模は本当に十人の規模もあれば数百人ぐらいの規模もありまして、そういった大中小の集会を開いて、説明責任を果たすということで、「国会で今何をしているか、自分がこれからどういう法案に取り組みたいのか」、スライドで映像も交えながら、そういうお話をさせていただいております。

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得票の重み

 先の総選挙、先輩方もよくご覧になったと思います。この9・11総選挙、これは郵政解散と言われておりましたね。今までの選挙と何が大きい違いか。これは自分が選挙をやってきた実態、実感からいたしますと、初めて政策中心の選挙になったんじゃないかと思います。政策中心と言うと、非常に高尚に見えますけれども、そんな高尚なものではなく、郵政民営化にイエスかノーか、その国民投票ですというような単純明快な位置づけでした。その結果、うちの神奈川4区は何と投票率72%です。もう異常な投票率ですよね。地区によっては八割を超えたところもありました。そういうところから見ますと、いかに関心が高かったか、そして今の政治が、どれだけ不満を持ちつつも憂いている人が多いか、という現状が浮き彫りになったんではないかと思いました。

二〇〇三年の総選挙、私にとっての初回は落選でした。ですけれども、全く無名の新人が一カ月半しか選挙運動をやらないで、約七万五千人の信任を得たっていうことを極めて重く受けとめました。3年前の得票率は39%、昨年は53%いただきましたけれども、39%っていう数字が、やっぱりどれだけの大きな重みを持つかということを私は受けとめまして、落選の翌日から、辻説法を雨の日も風の日もやりました。ありがたかったんですね、やはり無名の新人にここまで期待をしてくれたっていうのがありがたかった。

だからどんなことでも続けられました。五人の集会でも十人の集会でも全部出ましたよ。老人会でちょっとカラオケやってんだよって呼ばれて、平日の昼間です。でも浪人だから行けるんですよ、行って一曲歌ってきます。私の得意な歌は「長崎はきょうも雨だった」なんですけれど、それを歌って老人会の集まりに顔を出す。ある時は小さい子育てのお母さんたちが集まっている会がある、そうしたらもうそこに行くわけです。自分はまだ嫁さんもいなくて子供がいない。だから資格はないかもしれないけれども、政治では少子化対策にこう思います、ああ思いますというようなことを話して、やっぱり肌で触れ合うということがどんなに大事か感じます。それから反応も返ってきますし。

立候補を思い立った時の始めのころは、新聞記者の癖が抜けず、会社に七年おりましたけれども、頭を下げるっていうことを余りやりませんでした。それが最初の選挙のときは、「おまえのそのおじぎは会釈だ」っていうふうに言われまして、やっぱりおじぎは相当(立ち上がり深々と)、こう、これぐらいやっぱりやらないといけないって正されて(笑)、かなり直ってきましたね。そういったものが浪人生活時代に、後援会の方や、今回商店街とか地域の自治会、農協とかがもうこぞって応援してくれたんですけれども、そういう方に本当に支えられて今回当選ができましたんで、感慨がひとしおです。

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選挙の実際の根幹

 さっき言った政策等の問題に戻りますけれども、情実だったんです、今までの選挙っていうのは。酒を何人についだか、握手を何人としたか、面会して話したか、名刺をもらったか、あるいは街頭で見たか、チラシをもらったか、それが幾つかクロスすると投票行動に結びつくんじゃないかなと私は思ったんで、とにかくもうやれることは何でもやってやれと。で、今回政策中心のこんな選挙になるとは私は思っていませんでしたけれど、実際選挙は、本当の根幹というところは、その人が好きか嫌いかとかいうのが、私は非常に大きい問題だと思うんです。
桜が満開の今日も、地元でお花見ウォーキングっていうイベントに朝出てきましたけれども、参加者から「あ、ナマ林を見た」なんていうようなことを言われました。ポスターが地域に大体千数百あるんで、結構知名度は出てきたと思うんですけれど、まだ見ていないっていう人も実はやっぱり結構いた。自分では相当マメに顔を出しているつもりなんですけれど、やっぱり結構いる。だから新発見だし、そこで握手したり、ちょっと一言話すだけでも、また違うわけなんですね。自分の選挙区にこんなきれいな桜があって、こうやってみんなが触れ合って、リタイアした人たちがどんな生活をしているんだ、年金にどんな不安を持っているんだろう。それから自分が国会議員として送り出してもらっているけれども、それに対してどう思っているんだろう、やっぱりそういう空気が肌でわかる。

先の選挙は真夏でした。8月8日に解散をして、投票日が9月の11日でした。告示が8月25日。8日に、私はどうしようかって思いました。「いやあ自民党の内輪もめで解散しちゃっているのに、国民の支持得られるのかな」っていうふうに。

ところがその日に総理の会見がありましたよね。やはりこの国を役人天国からしっかりとつくり変えていくためには、今郵政民営化はその一歩であるというような、そういう内容でした。政治家の会見としては異例に視聴率も高かった。

国民がこうした点に共感したという見方もありますが、ただそこは表面的なもので、私は薄っぺらく捉えるべきではないと思っております。郵政民営化はもう本当に切り口でありまして、この国が抱えている八百兆円を超える国の借金ですとか、それからこの日米安保、あるいは中国大使館の件もありました。このはざまの中で、日本がどうやって生きていくのか。そしてまたこの少子高齢化の社会の中で、団塊の世代が全員退職してしまったとき、働き手と社会保障の受け手の方でバランスが変わってきます。それについて将来どうなるんだ。これから千数百年、二千年近く続いた天皇を中心としたと言ったら語弊がありますけれども、皇室典範の問題なんかもあったとおり、この天皇をいただいてきた日本国というのがこれからどう進んでいくか、そういう焦りと不安とすべてが織りまざった、こうしたこの国の姿をどうしていくのか、漫然とした不安がその時も、また今もあるんではないかなというふうに思います。

実際八十兆円の予算を審議していたこの予算委員会を、私も委員ではないのですが傍聴したり、差しかえで代理出席をさせていただいたりして肌で感じてきた。そうしてくると、その責任の重さというのを考えざるを得ない。と同時に、やっぱりこの時期に一年生議員が大量当選したのは歴史的に何か大きい意味があるんじゃないかなというふうに思ったわけなんです。

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支援者に恵まれて――浪人を経て

 今回の総選挙は、「地盤、看板、カバン」がなくて当選した議員が非常に多いのが特徴です。私も、もともとは地盤、看板、カバンというのはないんです。地盤は御存じのとおり選挙区ですよね、あるいは組織、知名度。看板というのが肩書きであったり、そこの選挙に有力なツールですよね。それでカバンというのが軍資金だとかいうものでありまして、そうしたものがないと、国会議員になるのが難しいというふうにされてきました。ですけれども、今回、自民党は空白区で大規模に公募を実施しました。一期生の会には公募当選の会というのもあります。私のように前回落選し、再度のチャレンジ組もあります。

今回は、街頭演説中心に政策を訴えたのも以前と違いました。実はミニ集会というのをやらないで選挙をやったんです。普通は選挙区内の公会堂などで集会を夜開いて、そこでお話をして、皆さんあと二十票広げてくださいとか、あともう少しなんで皆さん助けてくださいとか、そういうのが常なんですけれど、今回私は一〇〇メートル置きに辻立ちということをしまして、もう一切、街頭に出るだけの戦略をとりました。朝立ち、夜立ちというとおり、朝は始発の電車に合わせて駅立ちをして、夜は終電まで。拡声器は選挙期間中、朝8時~夜8時までしか認められません。だから朝は5時半に、夜は12時半までただ駅に立ちました。あいだの時間帯は、ちょっとだけミーティングをしたり食事をしたり、一、二時間ですね。残りの時間は全部一〇〇メートル辻説法というのをやっていたんです。一〇〇メートル行ったらまた話して、また一〇〇メートル行ったら話す。単純明快に話をしました。本当に一分か二分のフレーズを繰り返すような。ただ、実際には有権者は自宅から窓をあけて結構聞いているんですね。「うちの地区には来なかった」とか、後で言う人も結構いまして、やはり関心の高さを感じざるを得ませんでした。

そうした戦略と、浪人時代本当に温かい皆さんに応援していただいたということ、全部を総合しまして、今回いただいたのは十一万九六一八票でした。これは、八十三人の当選した新人議員の中で、私は全国の中で二位の成績でした。必死なあまり、公示日の出陣式のときには、私は路上に手をついてお願いしたんですよ。皆さん四百人ぐらい集まっている中で、自分も地域の割と有名な画家の孫だったんで、そういう中ではすごいボンボン育ちというふうに見られていたんだと思います。ですけれどもそうした中で、今回ダメだったら、もう終わりだったんですね。実は自民党の内規っていうのは二度までしか新人は公認しないというような内規があって、まさに崖っぷちの戦いだったんですけれど、そうした気持ちが本当に皆さんに伝わっていった、そうした総合力で当選した。だから、自分のこの浪人の二年間というのは、もう何ものにもかえがたい二年間だと思っています。さっきの頭の下げ方から、カラオケの歌い方から、酒のつぎ方から、一人忘れただけで大変ですからね(笑)。全部そういったことをやっぱり地域の方に育てていただいたっていうような感じですね。

今振り返りますと、今応援している中心の仲間は――私を「潤ちゃん」と愛称で呼んでくれる人たちですね、「潤ちゃんよ、おまえさんはボンボン育ちだから、一回目の選挙負けたらさ、もうどっか行っちゃうのかと思ったよ」っていうふうに言うんですけれども、それが一年二年って浪人を続けていくうちに、絶対引かないと、強い姿勢をいろんなところで見せるに至って、皆さんは「じゃあもう一回ぐらい応援してやってもいいか」というような形で、温情をかけてくださったんだなというふうに思いました。

先ほど弁論部の先輩のお話のことも言いましたけれども、渡辺深先輩を初めとして塾の先輩に大変お世話になっている。三井不動産の社長である岩沙弘道さんに東京の後援会長をしていただいているんです。もう公認をもらう前の時代から後援会長をしていただいていまして、こんなときも独立自尊の精神を感じたことはなかったですね。私には何もないんですよ、本当に一介の、当時まだ二十九歳か三十歳でしたよね。上場企業の社長に傷がつくかもしれないんですけれどもあえて後援会長を引き受けてもらった。一回目は現実に落選しましたが、落選しても激励で手をたたいてくれたんですよ。「いやあそんな立派じゃないか、七万五千票もとったんだよ」って。「だれがどこの馬の骨に七万五千票も入れてくれるよ」って励ましてもらいました。励ます会と称した政治資金パーティーも、浪人中昨年に一回東京で開かせていただいて、今年も開いたんですけど、そうした会を開いている新人がまだほとんどいない状態にもかかわらず、無事に開くことができたのは、本当に人に恵まれたなっていうことに、自分はつくづく感謝をしております。

そういう意味で、先ほど好きか嫌いかとかいうお話になりましたけれども、自分では何もできないんですよね。だからあとは応援してもらえるかっていうのは、真摯な思いが通じるかとか、皆さんの温情にすがれるかっていうところが、私はもう一番だっていうふうに思っています。その上でその期待をどれだけ自分があらわすことができるか、説明責任なりこんなことをやって、それがやっぱり自分は一番のお返しだと思っているんで、育てていただいたこの弁論部で、それが本当に原点になっているっていうのはそういうことであります。

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立候補の決意から退職まで

 立候補の決意から当選までということになりますが、毎日新聞に七年と言いましたけれども、正確には六年半勤めておりました。自分としては新聞記者で政治部に行って、そこで三十五歳ぐらいのときに満を持して出たいなっていうのが将来設計だったんですが、そのときだっていきなり国会にっていうことは考えていなかったんです。県会議員か市会議員からスタートして、それで国会に行こうと。卒業の前の選択肢では、官僚になることとかも考えていました。でもやっぱり政治に何か思いのたけをぶつけたいという思いが、もう十八歳で決意をして弁論部の門をたたいたんですけれども、そのときからずっと変わらないですね。政治一筋で、不器用なんですけれどもやってまいりました。

退職する直前、家族会議みたいなものを親戚も入れて開きまして、その中で父以外はみんな反対をいたしました。「新聞記者になって論説委員とかになって偉くなればできるじゃん。それだって政治を変えることだろうよ」って叔父は言いまして、母も「選挙費はどうするんだ」って。現実に私が当時いくら資金があったかっていうと、六百万、七百万円ぐらいだったと思いますね。そんなんじゃまるっきり足りないですから。例えば、有権者は三十二万人いますけれども、郵便物が郵便代と中身で百円するとします。十万世帯にそれを送ったとしたって、一千万円ですよね。県会議員の後援会名簿を合わせて六万人いますけれども、それに六万通まいたって六百万円ですよね。本当にセルシオが一台買えちゃうぐらいのお金が、一回郵便を出すだけで消えていっちゃう。そんなようなおかしな状態だっていうことを、後でわかったんです。けれども、母も昔小泉総理のウグイス嬢とか、叔母も事務所で働いたりしていたんで、それでもういかに政治にお金がかかるか、いかにヤクザな仕事かっていうことがわかっていたんですよ。だからもう猛反対で。父だけ賛成してくれまして、「全部を捨てて国家国民のために体張ってやれる覚悟はあるのか。ポリティシアンよりステイツマンとなれ」と。それで当時三百万円でしたね、それを父が用意してくれて、「おまえ当座として使え」っていうふうに言われて。それで私は退職届を出したんです。

当時の上司である報道部長に言って、郷里に帰って選挙に出たいから、会社を辞めますというふうに言ったら、「辞めて戻れないのはおまえももうわかっているだろうけれども、そういうことで辞めるんだったら応援してやろう」って言って、当時残っている七年間の有給休暇を、何十日かあったんですけれども全部使わせてもらいました。その期間は選挙の瀬踏みでも選挙区の見学でも何でもしてこいって言われて、二カ月ぐらい、有給休暇をもらいながら、当時地元の鎌倉市長選を手伝っていたんですけれども、そうしたことができました。

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自民党の公認制度

 辞める一年間に、実は自民党の宏池会という、当時の加藤派、その前の宮沢派が、国政候補者の公募をすると発表しました。二〇〇〇年の六月に自民党が大敗した時です。当時、森内閣で解散を打ったんですけれども、特に東京、神奈川、千葉、埼玉、一都三県、あるいは近畿圏を中心としたこの地域で、大物議員がたくさん落選をしたんですね。そのときにやっぱりもう自民党も世代交代をしなきゃだめだ、今までの情実型選挙から政策選挙に移らなきゃだめだといろんなことが言われたわけでして、そのときに党全体で公募してくれればそうトラブルも起きなかったんでしょうけれども、一派閥でそのとき公募をやっていたわけなんです。自分も親族に誰も政治家がいたわけでもありませんから、何かやっぱりきっかけがないとだめなんですよね。

そうした形で、その公募に応じまして、北海道から出していたんで、本当に不安でしたから、何回も電話するんですよ。届いてますかとか確認して、郵便ミスとかあって締め切りにおくれたら、もうこんなチャンスは来ないかもしれないと思って、当時は何も知らない状況でしたから、そんなことまでして、面接を受けまして、そうした御縁で公募の合格者として有力議員や党組織などに接触させてもらったんですね。

当時は、まず出たい選挙区をエントリーいたしまして、それで地域の有力者や神奈川県連とか横浜市連とかのキーマンにその派閥が引き合わせるというようなところからスタートしていって、会社をやめて選挙を手伝うなり、あるいは公認を前提としてこれからやっていくなり、そんな取り決めをしたりしたんです。

けれども、実は公認をいただくという話も保証されていたわけじゃなかったんです。

そこが家族も一番反対したところだったんですけれども、やっぱり自分では政治家になって日本に自信と誇りを持たせたいというのが一番だったんですね。もう弁論部時代から中国や北朝鮮に強く国益を主張し、あるいは日本の防衛権はじめ憲法改正だとかを強く論じていたんです。心外にも、軍国主義者や右翼っていうふう笑われていました。しかし、それぐらいまだ冷戦崩壊直後でしたから。今だったら当たり前の自衛権の問題とか憲法の改正なんかも、発言したらもう当時は狂っているという扱いをされていましたんでね。

中選挙区が変わって小選挙区制を導入する九四年当時、私はずっと手を挙げて「反対反対」って言っていたんですよ。「こんな選挙制度だったら自民党はじめ各党一人しか公認できないだろう。現職が優先だから、これじゃあ若者とか女性なんか、選挙に出られなくなっちゃうぞ。仮に立候補できても、野党が鬼のように強くて、当選の見込みがないところしか出れないぞ」と言っていったら、大体もうほとんどその通りになってはしまったんです。けれども、まあ与えられたルールだからこのルールで勝ち抜かなきゃいけないなと思いまして、じゃあそれで勝ち抜くにはどうしたらいいんだとなっていって、いずれ制度を変える機運があればやっていけばいいだろうなんて、当時は馬鹿だからそういうことを思っていまして。

今でもこの小選挙区比例代表並立制度はどうかと、いい点、悪い点は当然ありまして、特に重複立候補は問題ですね。やっぱり小選挙区でノーとされた人が上がってきてしまう。死票を少なくする効果はありますけど。だったら、中選挙区に戻せば良い。だから一番は、本当に自分と同じような持たざる者がきちんと上がれるような透明なシステムを党内で確立しなきゃいけない。実は今自民党の中でも、私たち一回生、二回生の若手議員が手をたくさん挙げまして、そういう透明システムを担保するようなことを、党内でもちゃんとやってくださいよと言っています。当選回数が少ない議員は、たまたま運よくフロックで受かったという意識でいる人も多い。だけど議席を得たのを機会に、やっぱりそういうシステムを改めませんかと主張している。党内で予備選を行うとかやり方がある。自民党の候補者が決まるだけでも、選考過程が不透明なことっていうのは結構ありますよね。現実に83会(自民党一回生議員の当選同期の会で、親睦団体)の中でも、これは悪いことだとは思わないんですけれども、かなりのVIP、つまり総理や党三役、重要閣僚など経験者の御子息の方が数人いらっしゃいます。今回も悠々と当選している。選挙に強いことはいいことで、その分、政策に精力を注入できます。ただ政治に縁故がないと、当選できないようなシステムに全てがなってしまった場合、新人による政治の新規参入が一体できるのか。そうした場合、やはり二大政党が健全なものと見るならば、公募を多用している民主党に果たしてそれに抗し得るのか。これが課題でした。

今、自民党内でも選考過程を透明化するシステムが一つ一つできているんです。若手の論客で世耕さん(自民党参議院議員)という方がおります。今回イエスかノーかの郵政民営化の選挙の立役者だった方です。その世耕さんを中心とした広報戦略本部というのが自民党の中にありまして、その中で、若手が政策提言をできるような、特に今回の公認申請とか公募とか、候補者の選考とか、選挙区についてとか、それの透明のプロセスがきちんと担保されるようなことを議論する場をつくろうということで、今まさにスタートしているところなんです。そういう意味でいくらかはよくなったんじゃないかというふうに思っています。

今回の選挙は、全国の選挙区の中で、自民党候補が勝てなそうなところはほとんど埋まってしまったんで、こうした選考方法が新規で採用される機会は多分減るでしょうけれども、一方で自民党の地方の学生組織なんかも続々と立ち上がっています。神奈川県の学生組織も立ち上がったばっかりで、党本部で活動しています。党員じゃなくても参加できるんですね。安倍晋三さんが来て、ゲーム大会やったりボーリング大会をやったり、そういうレクリエーションから、きちんとしたまじめな討論会、学生がどうやったら政治に参加できるかとかもやっています。だから大分変わってはきたんですけれども、まだまだもっと発言してやらなきゃいけないなというふうには思っております。こうした自民党も変わりつつある中で、今回9・11の郵政解散があったということですね。

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公認獲得レース

 立候補の決意から当選までについて話します。どうして公認をもらったかっていいますと、公認申請をする際に、やはり地元の地域支部に、県会議員とか市会議員がたくさんいるわけなんですよ。この私のいる神奈川4区っていう選挙区は、二〇〇〇年六月の総選挙出、自民前職が民主新人に二万票ちょっとの差で敗れました。その後にその前職の方が、地域で商品券を配るというような事後買収事件が起こりまして、地域の市会議員と町会議員が一斉に検挙されたんです。十数人でしたか書類送検をされまして、結果的には起訴猶予ということにはなったんですけれど、そういった経緯から、選挙をはじめ政治活動を手控えたいという議員の方が多かった。次期衆院選に対し、県連も県会議員の方に立候補する意思があるか聴いたところ、積極的には後継者として出るものではないというような形でして、市会議員も同様だったんで、中央から公募するということになった。私はそこに手を挙げました。

神奈川4区で自民党の公認を得たいという候補者は、四人か五人ぐらいいたんです。ある大物総理の秘書の方ですとか、国土交通省の官僚をやっていた方ですとか、あと外務官僚の方とかいらっしゃいました。中に城内実さんなんかも入っていたんですね。二〇〇三年総選挙では、浜松の選挙区で熊谷弘さん(元官房長官)と競り勝って、今回は郵政法案に反対し、刺客候補の片山さつきさん(衆議院議員、経産政務官)と無所属で戦って落選して、今頑張っていられると聞いていますけれども。その中の四人か五人のレースでした。

その中でどうやったかっていいますと、まず一つは後見人といいますか、自分を育てて支えてくれる、選考のキーマンとなる先輩の国会議員に応援をいただいたこと。それからもう一つは党組織の拡大のため、地域で党員を集めました。地域支部から五百人集めろと要請があったんですけれども、千人近く集めました。なかなか党員になってくれないんですけれどもね、でもとにかくお願いをしたんですよ。「自分の全人生をかけた戦いなんで、皆さんお願いします」って言って家族はじめ親類縁者にすべて名簿を書いてもらって、そこで党員を集めて。ほかの候補者は党員集めなんかしていなかったんですけれども、これが本当に決定的でしたね。

そういうところから地域支部で推薦をしていただきましてなったわけで、きっかけは公募で選ばれましたけれども、選挙区内では選考委員会で選ばれました。

結局のところ、本当に持たざる者、地盤、看板、カバンなしがチャンスをつかんでいくっていうには、どっちにしても公募かそれに準じたシステムしかないのかなと思いました。あるいは旧来の通り、政治部の新聞記者になったり、高級官僚になったり、やはり政権与党ないし、与党じゃなくても野党でもいいですけれども、そういったところと強くパイプを持つような仕事やセクションにつくこと、やっぱりそれしかないのではないでしょうか。実はうちの地域なんかでも、大企業で活躍された方が、リタイヤ後、住んでいた地域で市会議員とかやりたいっていうケースがあるんですよね。だけど、まだまだサラリーマンなどに政治に新規参入する門戸が開かれないケースが多くて、政治も専業化しているんですね。リスクも非常に大きいですし。

ですけれども、これからそういう団塊の世代がリタイアしてくるんですけれども、そういう方々がしっかりと第二の人生じゃないですけれども、それを生かせるような知識と経験とか、大企業で三十五年も仕事をやって、またそれを市政や県政で生かしていったら、これは違いますよ。政治に風穴があきます。今日は長友先輩(調布市長)もいらっしゃいますけれども、地方議会を見ると、外部からの活性化がさらに期待される部分があるんですね。

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学生の頃の政治状況

 弁論部時代のことに戻りますと、時は九一年、大学一年の十八歳のときに、『日本人材論』という本を読んで、日本の国っていうのは資源が何もない国だから、人間が、人材がしっかりしなきゃだめなんだよっていうことが書いてあり、感銘を受けました。本が出版されたのは第二次オイルショック(七〇年代後半)当時でしたけれども、現代にも通用する本でしたね。今言われている日本人の徳ですとか品位ある政治ですとか、日本の国益、主張、考え方、そうしたことが忘れられていて、やっぱりその時点でもすごく危機感があったということが伝わってくる本でして、今も何も変わらないんですね。だから当時もう絶対に、これを変えるためにはやらなきゃいけないなと思いました。

大学2年から3年のとき、九二年から九三年ころ、日本新党が結成され、先輩にあたる日本新党の都議の事務所に出入りをしたり、選挙運動を手伝ったり、エルゴー会では野間健先輩が、衆議院総選挙に出たときにもちょっとお手伝いに行ったりとかいたしまして、そのときに小池百合子さん(衆議院議員、環境大臣)が日本新党の広告塔をやっていたんですね。その小池さんや、代表をしていた細川さん(元総理大臣)が都内の演説会場でスピーチした際、話を聞きに行ったり、会場の誘導とかを手伝ったりしていたんです。けれども、細川さんが総理就任数ヶ月で、日本新党の発展的解消をしたいという話をしたんですね。あの発言をあまりにも無責任と思い、私は日本新党を応援するのを全くやめました。やっぱり日本の政治は、自民党に対しての別の対立軸や組織を作らないと、それもふわふわしたものじゃなくて、足腰がしっかりしたものをつくらないと、日本はよくならないという思いでいました。自分は今、自民党にいますが、当時と同じ思いなんですよ。

新党ブームが終わる前に新党に見切りをつけ、逆に、今度はもう絶対自民党しかないっていうふうになっちゃったんですね。自民党は当時、金丸さん(元自民党副総裁)の佐川急便事件などが発覚し、その金権や長老支配の体質が批判されていました。小沢さん(民主党代表代行)のグループが離脱したことで、宮澤さん(元総理)の不信任が可決され、その後の総選挙でも過半数割れして下野していた時でした。五五年体制の変わり目です。その自民党を、だけど私は支持していたんです。問題はあったとしても、将来を託すのは、じゃあほかにどこができるのよって。社会党かい? 連立与党かい? って。その後、非自民が集まった新進党にはもう期待はかけませんでしたね。細川さんのことがあったんで。やっぱり本気で第二自民党じゃないけれども、きちんとした地方組織から構築していって、多くの県、市会議員、あるいは団体だとか地域の人の信頼を得ながらやっていかないと、そのときの風で、良いだ悪いだっていう政党じゃ、やっぱり長年政権を任せられない。

だからアメリカやイギリスのような政権交代可能な二大政党が完全な理想とは思わなかったんですけれども、日本もそういうような形がちょっとは根づくの前進かななんて思っているときもあったんですけれどもね。だから九五年当時、都知事選に青島さん(前都知事)、大阪府知事選に横山ノックさん(元大阪府知事)とか当選する一時的なブームが起こりましたが、私はこうした時流に反対でして、そのときに石原信雄さん(元都知事候補、自民推薦)を支持していたんですね。だから当時の学生の中では普通じゃなかったかも知れませんけれども、こうやって世の中の時流に逆らって、だけど逆らう中の道筋の奥の一点がきちんとしたものだったら、それはいいんじゃないかっていう思いでやっていきました。

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公約達成を政治家の通信簿に

 最後に、この後半戦国会と秋の総裁選ということですけれども、今まで半年間働かせていただきまして、政権与党の力の強さっていうのを強く感じました。例えば十二月に党内で税制調査会が行われるんです。調査会の中で税率とか、税金の新設とか廃止とか全部そこで決めるんですけれども、そこで決まった内容が、当日新聞で取材され、翌日新聞に出て、もうそれで決まりですから。今回のたばこ税の1円値上げとか、不動産流通課税の優遇措置の維持とか、環境税の廃止とか、全部それは自民党の税制調査会で決まったことがそのまま政策になった話です。ほかの野党が何をどう言おうと、それはもう全部自民党のものが通ります。これだけの政権与党ですと。

ところが、こうした中で、国会議員年金の廃止なんかもやりました。マスコミからは改革が中途半端だとかいうことを言われていたんですけれども、私は選挙の公約に掲げていたんですよ。国会議員の年金を廃止します、それから共済年金と厚生年金の部分一元化をやりますというようなことを掲げていました。あとは官民格差を是正するということを掲げていました。

今回、国会議員年金の廃止法案は成立はしたんですが、全廃ではありません。在職十年以上の議員は年金をもらうか、廃止して掛け金を返還されるか選択できることになっちゃったんです。だから「甘い」と指摘されたんですけれども、かえってこれ、全廃にしちゃったら、納付がゼロのまま年金だけ支給しなきゃいけないんで、年金収支がマイナスになっちゃうんですね。それから、財産権の侵害っていうことで、今まで積み立てていたものが全部廃止になっちゃったら、やっぱりそれはおかしいことになる。事後によって契約が破棄されちゃうわけですから。政治家は、それぐらいに襟を正さなきゃいけないのかなと思ったんですけれど、ただ絶対的に国の財政はマイナスになっちゃうということがわかって、私は自信を持って今回の廃止法案は正しいと確信しました。それで自民党公明党の全体で成立に賛成し、起立をしたんですけれども、こうした公約をどこまで政治家が達成できているかっていうような通信簿みたいなのは、私は必要だと思っているんですよ。

だから自分の八月の選挙時に出した選挙公約が次の選挙ときに、どれだけ達成できているかっていうのを、ホームページなり、機関紙なり、精査して報告したいなと思っています。政治家の公約に関しては弁論部時代から不満がありました。一般的に、豊かな高齢化社会や商工業の振興とか無難で抽象的な政策を掲げますが、これでは、やってもやらなくても同じじゃんっていうふうに思っていたんですよ。例えば、商工業の振興だったら、じゃあ具体的に何をどうしたのって。中小企業の優遇課税を新設した、あるいは融資のシステムを変えたのか、それを議会でどのように発言したのか、そこをきちんと明記する、これがもちろん説明責任でもありますし、今政治に必要なことなんじゃないかなっていうふうに思っております。

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後半の国会審議――国民投票法案など

 後半戦の国会は、国民投票法案っていうのが実はございます。これは自民、民主両党、公明党を含めて推進している、憲法改正の手続法なんですよ。で、憲法改正を前提にしてはいるものなんですけれども、その手続法が今はできていないんです。憲法では、衆参議員の三分の二以上で発議し、国民投票の過半数で改正が成立すると規定されていますが、だれを有権者とするのか、告示の期間はどのくらいあるのか、投票権者っていうのは十八歳以上なのか、それとも二十歳以上なのか、投票が有効なのが、有効投票総数の半数なのか、それとも総投票総数の半数なのか詳しい規定がない。そうしたシステムも詳しいことが何も明記されていないまま、憲法ができてから六十年たってしまったわけですね。それに対し、法案をつくって、国民投票できるシステムにつくりかえようと。それが後半の国会の課題です。

このほかに教育基本法の問題。これは愛国心というものを教育基本法の中に盛り込むかどうかというものでして、実際のところ、今、公明党と調整をしているところであります。さっき言った国民投票法案は、これは自民・公明の与党に、野党の民主党が何で入っているかっていうと、憲法改正を前提にしていだからですね。憲法改正には、御存じのとおり全国会議員の三分の二以上が発議をして、国民投票の過半数をもって決めるとなっておりますので、国民投票の過半数がどうであるかにしても、やはり大切なのは発議ができるかどうかですね。ですから今民主党がいないと、少なくとも参議院はできないです。衆議院は三百二十幾つ自公で抱えていますのでできますけれども、これだって今の時期だけでして、次の選挙になったら、恐らく自民党は減るから、とても三分の二は維持できないんじゃないかというふうに思います。

この法案のほかに、私は厚生労働委員でやっている医療改革法案っていうのがありまして、医療制度、私たちから見ると窓口の負担は高くなる、医療費は負担も重くなる、お医者さんの診療報酬を減らしたり、介護のベッド、入院日数を減らしていったり、あるいは薬価を引き下げたり、私たちが持っている健康保険証を二十年三十年維持するために、これから大分今の制度を変えていこうっていうことで、これからの政治は、たとえ切り下げるような明るくないお話でも、「こうなんだからこうなんですよ、本当に申しわけないけれど、でも皆さん協力してください」と説明して理解を得なければならない。つらいところだなっていうふうに思っております。

このほかにいろいろありますけれどもね、少子化対策もあれば、先ほど言ったような教育基本法とか国民投票法案は、まぎれもなく十年前でしたら内閣が一つ潰れてもおかしくないんじゃないかと思います。こうした法案が出せるような世の中になったっていうことは、私たちはやはりいいことなんじゃないかなと、一年生議員で話しているところです。

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総裁の要件――国益、説明責任、決断力

 最後にこの秋の総裁選になりますけれども、だれがふさわしいのかというような話が新聞各社からも聞かれます。一年生議員主催のアメリカ大使館との親善野球でも、派閥のしがらみがあるんじゃないかとか、あるいは総裁選の絡みがあるんじゃないかということを記者たちに勘ぐられるくらい政局は注目されています。

そういう中で私が思いますに三つあります。第一に、国益をきちんと主張できるような姿勢があるか、それを果たせるか。第二に、これは時代が変わってきました――メディアを使いこなして説明責任を果たせるかどうかということですね。で、第三が決断と実行力ですね。こう決めたらタイミングよく、その瞬間に決定をすることですよね。

やはり国益を主張できる姿勢っていうのは非常に大切だと思っていまして、例えば靖国神社の問題があります。

私も実は学生だった十九歳のとき、靖国神社でビラ配りをしていたんですよ。「英霊にこたえる会」っていう団体に入会していまして、「東京裁判史観の払拭をしよう」と呼びかけるビラを配ってました。そのときは弁論部員としてではなく、個人として行っていましたが、遊びたい盛りの大学生としては異常な行動ですよね。みんなテニスとかして楽しんでいるんですよ。そういう中で靖国神社でビラ配りをしている人間がどこにいますかっていうような、そんな状況だったんです。そういうことで、今の靖国問題なんかでも、私が思いますに、中国、韓国、特に中国に対しては、法的と政治的な責任は、これはもうできているんだよって、これはきちんと確認しなきゃいけないと思うんです。日中平和友好条約でも、戦後補償についてはもう議論しない、終わっているって書いてあるでしょうと。だけど、じゃあ何が問題なのか。それは道義的な責任なんですよ。じゃあ道義的な責任を日本はどういう経緯でやっていましたかっていうことをお互いに検証した上で話し合うんだったらいいと思うんです。しかしながら、ただいたずらな謝罪外交はすべきではないというふうに思っておりますので、次の総理総裁になる方には、そこのところをきちんと踏まえて、今マスコミで、日中、日韓の悪化した関係をいかに修復するかというのが課題だというふうに言われていますけれども、修復の仕方が私は問題だと思うんですね。

具体的に名前を挙げれば、じゃあ福田さん(前官房長官)とか谷垣さん(財務相)は中国に近いから、それができるのかっていったら、私はそうは思わない。安倍さん(官房長官)か麻生さん(外相)ができないのかっていったら、そうは思わないですよ。やっぱりそれは主張すべきところは主張して、先ほど言ったように、論点をきちんとお互いに明快にした上で話していかないと。「じゃあ日本がこれからやるのは道義的なものですよ。これをお互いの同意のもとである程度やったら、じゃあもうあんた言わないね?」って、それをきちんと言えるような政治家じゃなきゃいけないと思います。

私は、年末に民放の報道ステーションに出演した際、古館キャスターから小泉総理の靖国参拝が正しいかどうか聞かれました。「正しいですよ、国益に合致してますよ」と発言したら、「参拝することで国益に合致しているとはどうしてですか、これによって周辺各国の反発があるでしょう、それが林さん、国益なんですか?」と応酬されました。すかさず、「いやそうですよ」ってはっきり言うと、意外性に向こうはびっくりするんですけれども、それだけ堂々と言うとそういうものなんです。「こうやって総理大臣が参拝することでA級戦犯の存在、靖国の存在は浮き彫りになったじゃないですか」って。「国民がこんなに関心を持つようになったじゃないですか」って。「それについて中国大使館のあのデモのときどうでしたか?」って。「日本はいたずらに謝罪外交一色っていうことにならなかったでしょう?」って。「これが土下座外交なら今までと同じですよ。これが国益と言わずして何と言いましょうか」っていうふうに切り返します。大体何も返せない人が多いですね。

ただ本質的な意味で、そこで手をバッサリと切ったり、大ゲンカするっていうことにはなっちゃいけないですけど、領海問題、油田の採掘の問題もそうですけれども、まだまだ解消しなきゃいけない問題、話し合わなきゃいけない問題はたくさんあります。そうした中でメディアを使いこなして、国益を訴える政治姿勢がやっぱり必要なんですよ。

今まで、森総理のときまではそれがなくてもよかったんですよ。だけどテレビのわずかな限られた時間で、論点を明快に話せるという条件なら、小泉総理はじめ、安倍さんだって麻生さんだって谷垣さんだって、今のリーダーは比較的持っている方だと思います。特に安倍さんは持っているかもしれませんね。そうした中で、テレビに向かってきちんと話して国益を主張できるっていうことは、これから極めて大事な条件だというふうに私は思っています。テレビの服装や表情とか、海外のサミットの中でどう映るかとか、この辺のところも、これからは実は重要なんじゃないかなと思います。

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リーダーの生き様、死に様

 それからさっき言った決断力は、中曽根さんと森さんの総理だった時の危機感の対応を思い出してください。森さんは、愛媛丸が沈没したときゴルフ打っていましたよね。その間に沈没して日本人がどんどん死んでるんですよ。ゴルフやめるべきでしたよ、やっぱりそこで。しかしながら中曽根さんは、三宅島が噴火したとき、確か夜中でしたよね、自己の責任の下、全部の島民を避難させました。やっぱりそれぐらいの決断力が必要なんですよ。だから自分が全部の責任を負うから、そこでやります、今やれ、すぐやれと、その決断が必要なんであって、決断が一秒おそくなれば人が一人死ぬ。やっぱりリーダーは結果次第。失敗すれば、あとは引責辞任するなり、腹を切るなりが責任の取り方ですよ。

東条英機さん(元総理)が敗戦直後、戦争犯罪人としてアメリカ軍に身柄を拘束される直前に自決を図りました。左利きにもかかわらず、右手で拳銃を持って心臓を狙ったんですけれども、外れて一命を取り留めました。リーダーなら、やっぱり頭を撃って確実に死ななきゃいけないというふうに思いましたね。何百万人の人を戦争に巻き込んで死なせてしまった、自らが兵士たちに「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と戦陣訓を強要して死に至らしめた、それに対しての責任は、リーダー一人の死じゃそれは軽過ぎますよ。しかし、そこできちんとしたけじめが必要です。ただ東条さんの場合は、自殺が未遂に終わった後は、天皇陛下が戦犯に及ばないように自分で罪をかぶるという決心をしました。そういう思いで東京裁判の法廷に立ったんで、それは非常に評価できると思いますけれども、やっぱりリーダーの死に様、生き様っていうのは私は大切だというふうに思いました。

 以上のような形で、先輩方にお話しするのは甚だ僭越だとは思いましたけれど、一国会議員としてまた恥ずかしくないように、そして弁論部、先ほど笠原会長がおっしゃいましたように、老・壮・青が力を合わせて働いてほしいというお話があったんで、きちんと先輩方に教わって、そして自分と同じように後輩がまたきちんと育つような政治の土壌をつくって頑張っていきたいと思います。これからも弁論部のエルゴー会の先輩の皆様方にもお育ていただきたいと思いまして、本日の講演を終わらせていただきます。本当にありがとうございました。

 

 

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