①子供の安全を守り、街の治安を回復させました。
全国的に子供を狙った犯罪が多発していた2006年、自民党「犯罪から子供を守る」プロジェクトチームを発足させ、私は事務局次長を務めました。警察庁(防犯関係)、総務省(携帯電話関係)、文部科学省(学校教育関係)の3省庁からヒアリングし、子供の安全や治安を守れるように意見集約し、予算獲得とともに以下の成果を上げることができました。
【空き交番ゼロを実現】
全国の警察官の増員予算を確保したほか、警察官OBを活用した交番相談員の制度をスタートさせた結果、2007年に空き交番はゼロになりました。(2004年、空き交番は全国で約30%にあたる1925カ所ありました)
【子供向け携帯電話の開発要請】
プロジェクトチームとして、GPS機能や防犯ブザーがついた「子供用携帯電話」の開発を提唱しました。その後、総務省が携帯電話各社に開発を要請し、現在では当たり前の機能になっています。また、地域の不審者情報を警察が配信するシステムも導入されるようになりました。これを機に、子供向け携帯電話が防犯に大きく貢献することになりました。(2006年)
【いじめ対策を大幅予算化】
校内のいじめや自殺を減らそうと、2006年度補正予算でスクールカウンセラー増員や、24時間いじめ電話対応として23億円を計上しました。
【青パトを飛躍的に増加】
青色回転等を装備した車両(通称・青パト)を大幅に増加させ、(2007年2万台⇒2012年4万台)させ、自主防犯パトロールの強化につなげました。これにより、警察のパトカーだけでなく、自治体やPTA、町内会などが青パトで地域を巡回するため、治安が向上しました。
②年金・医療・子育て支援について、着実な成果を上げました。
社会保障政策こそ要だと考えていた私は、初当選の2005年9月以降、衆議院厚生常任委員会に所属し、党でも厚生団体対策副委員長を務めました。同委員会審議の法案には全て関わり、一貫して厚生畑を歩んできました。特に舛添要一厚生労働大臣(当時)とのパイプを生かし、積極的に政策提言を続けたことで、以下の実績を残すことができました。
【医師不足対策に5000億円】
2008年、医師不足解消に向けて「地域医療再生基金」(5000億円)を創設しました。医師が不足している地域において、研修医の生活援助やキャリアアップ形成の支援などに使えるもので、民主党政権になっても引き継がれ、原発事故のあった福島県などは大きく役立っています。
【医師の裁量権を堅持】
福島県の大野病院で帝王切開手術を受けた産婦が死亡し、担当した産科医が逮捕された事件(2004年発生)は2008年、無罪判決が確定しました。私は医療行為について、必要以上に司法が判断することは、医師の裁量権を侵すほか、診療行為の委縮につながり、産科医不足に拍車をかけると考え、国会でも取り上げました。この判決を機に、医療行為による医師の刑事責任を問うケースについて、検察も慎重な判断をするようになりました。(2008~2009年)
【リハビリ打ち切りにNO】
2006年診療報酬改定の際、患者のリハビリに上限180日の日数制限を設けることが急遽決まりました。診療報酬改定は中医協の管轄で、国会議員が決めるわけではないのですが、全国から集まった44万人の反対署名を重く受け止め、私も反対の論陣を張ることにしました。結果、多くの声を受けて打ち切りは撤回されることとなりました。(2006年)
【年金の信頼回復に向け、同志と議員立法を提出】
2009年、社会保険庁の解体に伴い、日本年金機構法改正案を議員立法として提出しました。年金行政の信頼回復のため、不祥事を起こした社保庁職員が無条件に日本年金機構に移行するのを防ぐことを目的に、職員の分限免職の規定を定めた法案です。(2009年)
【出産・育児をサポート強化】
出産一時金の支給を増額しました
30万円(1994年~2005年)⇒35万円(2006年)⇒38万円(2009年1月)⇒42万円(2009年10月)
妊産婦検診の公費負担分を拡充しました 5回まで(残りは自己負担)⇒14回まで原則無料(2008年)
児童手当を拡充しました (基本は毎月5000円支給、第三子以降は1万円支給)
対象年齢を9歳以下⇒12歳以下まで引き上げ(2006年)
3歳未満は無条件に1万円支給(2007年)
※民主党政権後に1万3000円に増額されましたが、財源不足のため、「子ども手当」を廃止し、原則1万円支給の「児童手当」に戻りました。やはり、自公政権の児童手当の方が、財源や給付額もバランスが取れていました。
【国民皆保険を持続するための医療制度改革を断行】
メタボ検診による予防医療に重点、療養病床削減、レセプト電子化(2006年)を実施し、医療費の適正化を図りました。だが、実際には現場の要望と乖離した改革もあり、後期高齢者医療制度はネーミングで評判が悪く、また療養病床削減目標など下方修正されました。慢性赤字の国民健康保険の財源については、市町村から都道府県に運営単位を広げ、安定化を目指しました。(2006~2009年)
③日米協調で日本の安全に貢献しました
【イージス艦あたご型を2隻配備】
弾道ミサイルの捜索・追尾が可能なイージス艦で、北朝鮮のミサイル試射等に備え、空の安全度が格段に強化されました。(2007年)
【米第7艦隊、在日米海軍の司令官らと意見交換】
党国防部会を通じ、日頃から集団的自衛権の研究と、在日米海軍との意見交換を図りました。また、空母の艦載機訓練や、沖縄や硫黄島など米軍施設も視察し、「抑止力」について再確認するとともに、有事に際していかに日米が連携してアジア・太平洋の平和と安全を確保するか、シミュレーションしてきました。(2005~2009年)
【防衛庁が防衛省に昇格】
防衛省になり、閣議への請議や財務大臣への予算要求、省令の制定などが防衛大臣の名において行えるようになったことが変更点です。今後は本格的な組織改編が期待されます。(2007年)
④憲法改正手続き法と教育基本法改正案の成立に尽力
【改憲手続き法成立で立法府の不作為状態を解消】
日本では改憲手続きは憲法に規定されていますが、「国民投票の有権者」や、「各議院の総議員3分の2」の定義等について、詳細を法律で定めていませんでした。戦後60年以上も不作為のまま放置されてきましたが、安倍内閣で成立した「日本国憲法の改正手続きに関する法律」により、国民投票に関する規定が定められ、改憲手続きを実施できるようになったことは、大きな一歩でした。(2007年)
【教育基本法改正で公共心を明記】
ほぼ60年ぶりに改正され、個人の尊厳だけでなく、公共心を尊重し、伝統を重んじよう、ということがはっきり明記されました。また、教員免許も更新制度も改められました。(2007年)
⑤日本の歴史認識を浮き彫りにし、警鐘を鳴らしました
【村山談話について、政府の歴史認識を質しました】
村山談話について、私は「村山政権だけの歴史見解か、それとも日本国政府の見解か?」と質問しました。政府答弁によると、村山談話は「1995(平成7)年に村山内閣が出した日本国政府の見解を表す談話である」というものでした。従って、ある内閣が将来、歴史認識について、村山内閣と違う見解を示すことも可能だと言うことになります。こうした言質を取ったことにより、将来に向けて、日本が正しい歴史認識に基づいて、近隣諸国に事実をしっかりと伝えることこそが、本当の理解につながると考えます。(2009年)